昭和48年9月3日 朝の御理解
一つ「神の教えも、真の道も知らぬ人の哀れさ」
信心を頂いておっても、み教えを頂いておっても、教えを守らなければ、真の道は分かりません、教えを受けて教えを守るところに真の道が自ずとついてくる、またははっきりしてくる、ですから、えぇ、信心しておるから、あぁ、良いというのではない、神様の目からご覧になって、いやむしろ一入、哀れを神様は模様されるのじゃなかろうかと思う、毎日毎日教えは頂いておって、教えを守ろうともしなければ、真の道も分からんなりに、何十年間ただ金光様の御信心を頂いて、願えばやはりおかげは受けるから、ただ受けるからだけで続いておる氏子のことなどは、を思われたら、せっかく頂いておるのにと神様はおしめするんじゃないでしょうか、勿論そういう教えを聞いたこともなからなければ、真の道なんか考えたこともない、不信心の者、いわゆる信心のない者、も勿論ですけれども、えぇ、信心を頂いておりましても、ね、教えも、聞いても聞かんでも同じ事、聞くだけ、それでは真の道も分からない、ね、だからそこに一入、哀れが募るのじゃないですか、毎日毎日ああやってお参りをして来ておるが、ね、教えを守ることもしなければ、真の道も分かることない、それでは、と、おぉ、神様が哀れを模様される、神様に、そういう、う~、悲しい思いをさせる、信者氏子であってはならない、同じ信者氏子でもね、なるほど現世においての、いわゆるご利益ということはやはり、金光大神のお徳でおかげを受けますけれどもね、ですから、私は、なら合楽で皆さん一生懸命信心の稽古をなさっておられる、なら神の教えを受け、真の道に出たらどういうことになっておらなければならないか、どういうことになりつつあらなければならないかということなんです、ね。
神の教えを段々受けていって、ね、それが、生粋なものが、合楽でははっきりしてきておる、神の教えを頂いたら、ものの見方考え方もこのような風に変わってきておる、これは教えを受けてその教えを行じておる者の姿です、ならどういう風にものの見方考え方、ね、またはその教えを受けて、えぇ、ここだ、これだと、いうような一つの生活の信条とでも申しましょうか、生きて行く上の、いわゆる幸せへの条件とでも申しましょうか、そういうものが足ろうて行きつつあるかどうか、足ろうて行きつつあるならばあなたはもう真の道を歩いておるのと同じなんです、ね、けども信心を何十年しておってもです、やはり信心のある者もない者も、さほどに変わらないとするなら、それはいわゆる教えを、ね、神の教えも真の道も知らぬ人と同じことなのです、ただおかげを受けるということだけを、知っておるというだけ、ね、だから金光様の信心だから、神様が、ね、喜んでおられるということじゃないのです、神様が喜んで頂くというか、神様が安心して下さる氏子に私共がならせて頂こうと、精進努力をしておる氏子の上にです、おかげを下さるのです。 昨日ある方がお参りをして来て、拍手打って拝みよりなさると思うたら、もうそこへ眠ってなさる、鼾が聞こえてきた、私はここから下りて行ってからこらこらっち言うちから、起こそうごたったばってんか、神様にお願いさしてもらいよったらね、もう細々と祈るよりも頼むよりも、あれの方がおかげと神様は仰ったですよ、ね、聞いてみると、ついっぱい、そのおぉ眠る時間も少ないし、一生懸命修行しておるもんですから、ね、それでもやっぱり神様を、拝ましてもらいよると、もうどうぞ、あれもこの事もどうぞと言うて願うよりもです、願うよりも、それはもう神様がその氏子の、思い以上のおかげを下さると言う、そういう神様なんですこの神様は、ね、はぁ眠っとったけんご無礼したといったようなことはないです、私は昨日それを頂いてこれは、改めてです、あの、ならここで御祈念中に眠るてなんてんて、それはね、そりゃぁ深夜劇場どん見てからね、そして我が、わがままなことをしてから、夜更かしをして、そして朝が目が覚めないとか、御祈念中に眠るとかという、これは私は許されないと思う、けれども一生懸命努めて努めて努めた上に、そうしてお参りをして来ておる、して拍手打って頭下げたが最後もう鼾が聞こえよる、私はせっかく参ってきて、ほれこらこらっち言うて、私は人間的に思うたけれども、神様は様々な祈りを続けて、ね、あれも願いこれも願い、あぁゆっくり御祈念させて頂いて、あっちも願うた、心ゆくまでお願いをした、というて、じゅっ、十分の眠りをとって、修行もしないで、御祈念しておるよりか、神様はそれの方が受けて下さるという神様なんです、ね。
私は最近、このお取次ぎをさせて頂くということにもう、大変、あのぉ、お~、お取次ぎの言うならば、ああミストとでも申しましょうか、妙点とでも言おうかね、はぁこういうところは私共が気がつかなかったところをね、本当のお取次ぎが出けないなといったようなことを次々と分からして頂きよります、有り難いことだと思うです、なら昨日のそれもそうなんです、今までなら私はここへ座っとってからイライラモヤモヤするでしょうねおそらく、それでは良いお取次ぎは出けんのです、けれども神様に教えて頂いて、なるほどもうその人は、眠りながら自分の願い以上の願いを神様がもう聞き届けておって下さるようなもんです、ね、まあそのようにしっ、い~、まあ神様ですが、その神様のなら教えて下さることをです、ね、拝聴させてもろうて、それをね、それを本気で頂こうと、お互い日常生活の上に、現わして行く、努めて行く、そうして行く内にです、真の道が、自ずと分かってき、はっきり分かってくる、なら、合楽では今それは、どういうところになっておらなければ、教えを頂いていないということになるかということです、ね、天地の親神様の御働きそのものにです、もう純粋な心で、それを合掌して受けて行くということだと思うですけれどね、私合楽では、段々段々教えを、栴で詰めて頂いて行きよったらです、最近ではそういうことになってきたんです、ね、言うなら成り行きを大事に尊ばせて頂くという生き方、ね、そこからです、自ずと真の道ははっきりしてくるのです、私はそれを、真の信心とはこれだという風に言っておるのも、それはそういう生き方なら必ず真の道に入られる、真の道に入られれば、真の信心を頂いておることになるのだから、なら真のおかげが現れないはずはないということになった、ね。
合楽でみ教えを頂かれておられる方達はです、ここんところが段々、あなたの生き方の、言わば信条になって行っておらないとするならばです、教えを受けていないことも同じことになるのですよ、ね。
ね、御事柄としてのこと、最近頓に増えましたことはね、ここで合楽教会大発展という、お届けが、ひじょっ、非常に多くなったことです、そしてそのお取次ぎを願っておられる方達がもう実際におかげを受けておられることです、なるほど野口さんが、あぁその中村さん、「とにかく合楽教会大発展願う時は家ん子供は願わんでん良かばい、親先生のことを願えばもう自分の健康のことなんかお願いせんでん良かよ」と、言うておられたということをです、ほんにあげんただ聞き流しとったばってん、亡くなられてからこっちそれを実行さして頂くようになったら、かくかくおかげが変わってきた、自分の信心の内容も変わってきた、と中村さんは言うておられます、中村さんだけじゃありません、皆そうです、ね、そんならあれほどしに合楽教会大発展を願わせて頂きながら、あれほど親先生のことを願われながらどうしてならあげん早死にされたかと、もう早死にするとかしないとか、そんなことは全然信心の上から問題じゃないです、ね、何故かって、この世わずか、言うなら人生五十年でしょうもん、あの世はどれだけあるか分からない、もですもん、ね、そんなことは一っつも問題ではないのです、ね、本当に神様の目からご覧になったら、人間としてはです、早死にされたり、ね、それは、あぁ愛する者と別れるということだけでも、辛い苦しいことですから、永の別れになるということで、ことですからこれが悲しくないはずはありません、それが苦しみじゃないはずがありませんけれどもけれどもです、ね、信心の、言うならば、心を開くところを開かせて頂いて、言うなら、平田さんの言葉を借りるならばです、握り拳で神様と握手しようち言うたっちゃ握手は出けん、ね、こう開かなければ神様との握手は出来ない、ね、勿論心を開くのだということがですどこなんだ、合楽教会大発展、親先生のことを祈る、健康を祈る願うということが、何故そのように大変なことになろうかと、それは今も申しますように、成り行きを大事に、ね、御事柄としておかげを受けて行くところからです、信心のゆとりおかげのゆとりが段々出けてくるのです、心のゆとりが出けてくるのです、心が開けてくるのです、その開けた心で、合楽教会大発展を願うからおかげにならんはずがないです、何故かって、合楽教会の大発展は、ね、お道の言わば発展に繋がるのであり、世界真の平和に繋がるからなんです、ね、和賀心時代を創るという、神様の、ね、私は願いの第一と思われる、御神願の第一と思われる和賀心時代を創るということに繋がるから、合楽教会大発展を願うということがおかげになるのです、ね。
昨日特別奉修委員の方達にお話をしたことですけれども、今日が野口さんの二十日さっ、二十日祭に確かなります、ですからあのお父さん方の、昨日日曜でもありましたから皆、あぁ集まってきて、で皆一緒にお参りをしてきて、そして、あのぉ、智子さんって言う、まあ言うなら、兄弟に中で一番、信心、お母さんが信心を言うても右左言うておった、あの、娘さんのことなんですけれども、その、おぉ、一番信心のなかった娘んところへ、野口さんがお夢の中に現れた、もうそれはもう、だいたい皆さんご承知のようにあんな綺麗な方でしたけれども、それがもう実に綺麗な姿でね、「私あんたのことが一番気になる」っち言わっしゃった、「信心のないあんたのことが」、ね、「だから私はあちらでね、言うならば、あちらで通用するもの、・・」あちらで通用するもの、それをお金という風に表現しておられますですね、それを、「あのあちらで通用するものということを、だからお金ならば、何百万円という風にこう言うでしょうけれども、三百本とこう言うておられますね、三百本ある、だからこちらではね、一本あれば生活が出来るんだ」と言うのです、私はそれを聞いてですね、本当にあのお徳というものを持って行かなければならないということを思います、先日もあのここの田中初美さんが、頂いておられるお夢も、もうこれももうまざまざと頂いて、あられ、もうそりゃこんな良い着物ば野口さん持っとんなさったじゃろうかと思うような素晴らしい着物を着て、常持の方から一生懸命こっちの方まで、もうそれこそもう生き生きとしてやってみえた、大きなボストンバックを下げて、「あらぁあなた亡くなっとんなさったでしょうが」て「いやそれが」と言うて、「田中さんに頼まなければ、」あちらの大家さんになりますからね、言わねばならないこと、頼んでおかなければならないこと、家庭の誰彼にも言うてもらわなければならないことを言うてから、忽然として消えられたっち言う、ね、そして今そこに持ってきておられた、あのボストンバックだけが残っておるから、何が入っておるじゃろかと言うて開けたところが、そのボストンバックいっぱいの、あの鯛ですね、海の魚の鯛、鯛が入っておった、鯛と言やここで皆さんが言うように、最高のおかげと言われておりますでしょう、あの世からこの世に持ってこれれるほどしの、あっ、あの世からこの世を自由自在にです、こう行ききが出来るほどしの力を受けておられたということなんです、それはうんなら、例えば野口さんの信心を言うと、今今日私が申しますように、教えを受けて教えを本気で行じておられた、完璧ということじゃないですよ、それに取り組んでおられたということなんです、成り行きを大事にせにゃきゃならないということも、でそっから生まれてくるところのおかげのよとりというものがです、とにかく中村さん、おっ、合楽教会大発展をお願いさえすりゃ良かばい、親先生のことを願うとりゃもう自分のことは願わんでん良かよ家のことは願わんでん良かよという、ほどしのものをです、ね、ということは、神の教えを分からしてもらい、真の道を踏んで、その真の道があの世にも繋がっておられるということを皆さん感じるでしょう、いかに例えば不信心な者であってもです、それが一遍か二遍かなら、まあ、一生懸命思いよるけんその人の夢ば見たっちゃろうと言うけれどもです、ならもう私がはっきりお届さして頂いとるだけでも3回です、亡くなってすぐある問題があった、その問題を解決のためにわざわざ、おいでられて、夢ん中に現われておられます、これは長瀬さんのところに、ね、田中初美さんのところに、娘の智子さんのところに、ね、しかも一本あればあちらでは立ち行くというほどしのものをです、「この次来る時には、智子さん、あのこれを持って来てやるから」って言われたっち、それけん二百九十、じゃない、九十九本か、ね、は、こちらに送ってやられる、先日から平田さんも、あの、ここの敬親会の方達に話しておられた、「私はあちらに持って行く、そしてこちらに交わしで送ってやるような、おかげを頂きたい」と言うておられます、ね、私ただ冗談話しとか、ただ夢物語という風じゃなくてです、言うなら、神の教えを、頂いて、真の道を歩いておるということは、いよいよあちらにも喜びの道、真、よろっ、真の道ということは、喜びの道であり、安心の道であり、霊ながらも働きの出来るほどしの道というものを、この世あの世を一貫してです、行けれる道ですから、五十年六十年という、ことじゃないでしょうが、ね、ならどれだけ何十年信心させて頂いておってもです、ね、それをなら身に付けずに、ならおったとするならば、神の教えを、わっ、聞いておっても、それ守らんならば、教えを受けておらんも同じことであり、それで真の道が勿論分るはずもないのですから、ね、あの世に行ってもやっぱ貧しい生活をしなければならないということなんです、ね。
今日私は神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさと、信心さして頂いておっても、信心しとるからこそ尚更、ひとっ、ね、それこそ一入に、神様が哀れを模様しなさる、させっ、神様をそういう思いを、悲しい思いをさせておるのではなかろうかと、私自身が思うてみて、ね、いよいよ本気で教えを受ける、教えを受けるということは、ならそれが様々ですけれども、生粋のところです、合楽ではどういうことになっておらなければならないかと言うと、まあ教祖の言葉を借りるなら、天地日月の心になること肝要と言うところに、信心の焦点があっておらなければならない、ね、いわゆる自然に逆らうようなことがあってはならない、昨日櫻井先生がお届しておられます中に、ね、最近、世界のあちらこちらでも大変な、あぁその、事件とか、その~、天災といったような事があっておる、その事に対してですね、いわゆる、自然に逆らうから、ね、自然に抵抗するから、自然がまた、逆らうのだ抵抗するのだと、言っておる学者があるということです、ね、例えば、あぁ、ここに、まる、え~、肺病なら肺病という、病気のためんならばもうこういう治療法、こういう医者、薬が出けたから、ね、もう肺病だけは心配せんでん良かよといったようなことになってきたところがです、今度はもう、今度は人間の、手では今んところ出来ない、こればっかり施し様のないといったような病気が新たに出来るということです、病気んなんかでもそうです、これは人間が不自然な逆らい方をするからです、だから自然がまた逆らいよる、ね、人間が逆らうたたったこのぐらいじゃろうばってん、自然が逆らうということは大変なことなのですから、ですからならその自然の働きに従順になる素直になるということになればです、天地の親神様も自然もまた、素直に黙って眠っておっても、願いの成就させて下さるというほどしのおかげになってくるという、意味は皆さん分かるでしょうが、いかにそのね、神様の働きそのものにです、従順にならなければならないか、合楽で信心の稽古をさして頂いたらまずはここんところが分からしてもらい、ここんところに、心開かせて頂いて、ね、それが出来るということじゃありませんよ完璧に、それに、ならせて頂こうと精進努力をするということなのです、ね、それが神の教えを、言うなら分った、合楽で教えを頂いておる者、としての信心、言うなら、そこに真の道もはっきり付いてくる、その真の道というのは、この世あの世を通しての、素晴らしい有り難い、こちらでも、喜びの生活安心の生活が出けるように、そのままあの世でも喜びの霊として、安氏の霊として、それからあの世からこちらへ送ってもや、持って来てでもやれれるほどしのものをです、頂いていけれるのが、真の道を知った人の、生き方なのです、ね。
教えも真の道も知らん人の哀れさと、まあ本当に哀れなことです、信心しておってもそこんところを守り行じないならば、それはまたいよいよ一入哀れです、ね、お金を沢山持っておっても、大変な苦しみを持っておるために、苦しんでおるとするならです、そりゃ一入哀れでしょうが、ね、と同じことです、信心さして頂いてただ、おかげというのでなくて、ね、教えを本当に行の上に、真の道を、ね、本気で、これこそが真の道であろうという道を歩かして頂いて、真のおかげを頂いて行ってこそ、神様が喜んで下さることであり、金光大神がまた喜んで下さることであり、私共はいよいよ安心の、いわゆる人間の幸福の、条件の全てを身に付けて行きながらの有り難い生活が出来るということになるのです。
どうぞ。
入力者:誠輝